【001】岐阜大仏|撮影道中だって、被写体に夢中
はじめに
趣味写真家の大谷です!
今回は日本三大仏のひとつとして称される、正法寺の岐阜大仏へ!

これまでの人生。
写真を撮影する時は、事前に深く調べずに撮影地を訪れていました。
そして、自身の感性で、その場を、その主役を「かっこよく」を撮影してきたつもりです。
ただ、その行為は「単純に撮影する」ことに過ぎません。
最近、私の心の中で「単純に撮影する」という行為は、「文化と歴史にリスペクトが足りない」ように思うようになりました。
だから、ここからは解像度を上げて被写体と向き合いたい。
そこで、今回は人生で初めて事前にガッツリ史実を調べた上で、被写体と向き合ってみました。

撮影前の大谷調べ
史実の整理
さてさて、まずは、史実に基づき「なぜこの大仏は作られたのか?」を自分なりに整理してみました。
この情報があるだけで、大仏様を見る視点は大きく変わります。
岐阜大仏が作られた目的
大仏が作られた目的は、「災害の犠牲者を弔うため」です。
これを聞いて「あー、災害ね。よくある理由だよね。」で終わってしまうのは非常にもったいないと感じます。
では、「災害」と聞くと、どのような災害を連想するでしょうか?
大仏を立てる計画がスタートしたのが1787年。
時は、江戸中期を過ぎたあたり。
積極的な経済政策が進められ、農民の年貢(お米)を基盤とする「重農主義」から、商人からの税金(お金)を基盤とする「重商主義」への転換が図られた時代。
この時代に江戸時代の中でも、上位に君臨する災害が発生します。
それが、「1782年 天明の大飢饉」です。
江戸時代の1782年〜1787年にかけて発生した飢饉です。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされてます。
飢饉とは?
天候異変や災害などによって農作物が大規模な不作となり、地域社会が極端な食糧不足と深刻な飢餓状態に陥る事態
それにあわせて、「1783年 浅間山の大噴火」
長野・群馬県境の浅間山が大爆発を起こしました。噴き上げた火山灰が太陽光を遮り、北半球規模での寒冷化(冷害)を引き起こしました。この噴火が、先に書いた天明の大飢饉を更に問題として加速させます。
冷害とは?
夏期に気温が上がらず日照不足が続くことで、農作物の成長に深刻な被害が出る自然災害です。日本では主に北海道や東北地方などの北日本、および高冷地で発生しやすく、米などの穀物生産に大きな打撃を与えること。
この二つの災害が重なった結果
全国で約90万人の人命が餓死と疫病で失われた。
主に東北地方での被害が大きく、青森県に当たる領地では人口が半数にまで減ってしまうほど。
日本全体で見ても、当時の日本の人口は2600万人。
すなわち、最大値で26人に1人が飢饉で亡くなっていたという計算になります。
酷くヤバい状況だったことがわかります。
東海地方でも、飢饉による米屋の打ち壊し、冷害の影響や河川の氾濫が相次いだみたいです。
もう、この世の終わりのような時代です。
当時の人々も、救いを求めていたと考えます。
このような時代背景がある中で、正法寺の和尚様は岐阜大仏を作り「災害の犠牲者を弔おう」と思われた。
というのが、時代背景の話です。
1782年〜1787年:天明の大飢饉
1783年:浅間山の大噴火が飢饉に追い討ち
1787年:岐阜大仏作成スタート
これを知った上で、大仏様を見ると印象が大きく変わりますよね。
撮影道中
ここからは、実際に撮影した写真を使い視点を深めていきます。
まず、これが岐阜大仏が鎮座する正法寺の外観です。

建物の形が特徴的だとは思いませんか?
どうでしょう?
この建物って何でしょう?と聞かれると…
「あー、なんか城っぽい」って答えそうになる気もします。
中国の明朝様式と和様が融合しており、お寺というよりは城っぽい作りをしています。
一番上の階が、お城でよく見られる「天守閣」って言われても納得できそうな雰囲気あります。
ついでに、画面左上に注目!
山の上に小さくお城が写っているのが見えるでしょうか?

あれが、風景カメラマンの中では超有名な「月城」こと、岐阜城です。
この正法寺は、岐阜城の麓にあるんですよね。
意外と知らない人が多い気がしてますが...
では、建物の中に入ります。

中に入ると「おお!」って声でます。
まじで、「おお!」です。
後から、入ってくる人たちも「おお!」と声を出してました。
本当に「おお!」「おお!」なのです。
この大仏様が、今回の主役「岐阜大仏」です。岐阜県の重要文化財です。
なぜ、「おお!」と感じるか?
これは、写真では伝えることができない体験ですが、他の有名な大仏様とは異なり距離が近いのです。
日本にある色々な大仏をリアルに見てきましたが、岐阜大仏は何回見ても「おお!」となります。(今回、4回目)
迫力が違います。
他の大仏様って割と広い空間の中心に座っている、又は外にいる場合が多いんですけど
お寺の入口から、大股で「いち!」「にの!」「さん!」で大仏様の目の前に行けそうなぐらい!
距離も近いため、入った瞬間に「どん!」って感じです。
これは、感覚は実際に足を運んで体験して頂きたい気持ちがあります。
さて、お寺に入ると、椅子が大仏殿の正面に準備してあります。
せっかくなので、そこに座ってみようじゃありませんか。
そして、顔を見てみましょう。
「目」が合います。

ここで、大きさの情報です。
大仏の大きさは「13.63m」
ビルで言うと3〜4階建ての大きさに相当します。
比較対象を挙げると、奈良の大仏大きさは14.98m。
奈良の大仏より約1mぐらい大きさが小さいです。
その大きさを超えないように作成されたとか…
また、岐阜大仏様の特徴として、めっちゃ前傾姿勢なのです。
そのため、大仏様が前傾姿勢でこちらを優しく見つめられます。
見つめ合うと素直におしゃべりできませんが…
すごく圧倒される感覚に陥ります。

見つめ合う
ここで質問です。
みなさんが思い描く大仏像ってどのようなものでしょうか?
奈良の大仏、鎌倉の大仏、牛久大仏…
この辺りが日本の大仏様の有名どころですよね。
さて、大仏様って何で作られているでしょう?

牛久大仏様
答えを渋る必要もありませんので…
そう、よくある大仏様の材料は「セイドウ!」です。
奈良の大仏:青銅
鎌倉の大仏:青銅
牛久大仏:青銅
「ブロンズ像(=青銅像)」の方が聞き馴染みがあるでしょうか?
では、岐阜大仏は、何で作られているでしょう?

正解は「木材」です!
と言い切ることはできません。
この大仏は、日本一巨大な乾漆像(かんしつぞう)です。
言葉だけだと聞き慣れないため、全く「何で作られとるんや?」のイメージが湧きませんよね。
はい、それは私もです。笑
素晴らしく簡単に言えば
「木製の枠に紙をペタペタ貼って、ボンドでカチカチに固める」と言う作り方です。
イメージできますか?笑
この作り方は、以下のメリットがあります。
軽い!
凄く丈夫!
複雑なポーズを作りやすい!
「へーなるほどねー」となったところで、阿修羅像ってご存知ですか?
顔か3個で手が6本ある像です。
ワンピースのゾロが使う「鬼気九刀流阿修羅」の元ネタと言ったほうが伝わるでしょうか?
その「阿修羅像」も乾漆像です。
岐阜大仏の作り方講座
じゃあ、岐阜大仏を作ってみましょう。
銀杏の木を心柱にする
木材と竹で籠のように骨組み・下地を編む
粘土を塗り、お経(一切経)が書かれた和紙を張る
漆を塗り、金箔を施す
断面図をみても分かりますね。

内部から竹𣏾→粘土→一切経→うるしと金箔

銀杏の木が柱になっていることが分かる
最初の「正解は、木材!」の件は、大仏様のベースの部分に使われてます。
また、「岐阜大仏=籠(カゴ)大仏」と呼ばれています。
その所以は、まさに制作過程の「籠を組む」にあります。
制作工程の中で、私が最も目を惹かれたのは「3. お経が書かれた和紙を張る」のところです。
ここで少しだけ史実を...
和尚は大仏建立の資金や資材を集めるため、美濃国周辺のみならず、広く各地へ托鉢(勧進)に出向きました。その際、資金とともに各宗派の経典を集め、それを大仏の素材として実際に使用しました。
このような大仏を作る時って、材料として色々な人が持ち寄るイメージがありましたが…
まさかの和尚様が自ら出向き集めるスタイル。
現代人が「お経を集めて大仏を作った!」って聞いても、それはそれで驚きですが、
当時の産業が革命していない時代に「自ら出向き集めた」ことは驚きを超えて衝撃です。
芸術的な観点で見ても、常軌を逸した尖った作品であると私は思いました。
私は、この「お経」の話に魅せられました。
そこで...
「そんな痕跡が残ってないか?」
望遠レンズで大仏様を細かく覗いてみました。
そしたら、ありましたわ。

見えますか?
漆が剥がれているところに、お経の文字がびっしり書いてあるところがありました。
超ドアップでお送りいたします。


こちらも


画質が悪いのはご勘弁を。
でも、綺麗に撮ることよりも、この痕跡が見れたことが私としては凄く感動しました。泣
このような、史実って、ほとんどの場合、実感することができない場合が多いじゃないですか。
ただ、ここは違うんですよね。
実際に、「剥がれたところから文字が見えるって、本当に史実通りなんだ」と身をもって感じることができました。
また、ところどころ、老朽化的な問題で金箔や漆が剥がれていますが、またこれも良きです。
逆に数百年経過しているのにこの程度なのも、凄いと思いましたわ。
流石は、「凄く丈夫な」乾漆像と言ったところですね(もちろん、維持管理されている方がいる上で)

漆が剥がれている

足の金箔が剥がれている
なぜ?乾漆像なのか?
なぜ、乾漆像になったのか?という点について共有して話を締める方向に進みたいと思います。
本来は、他の大仏と同様に青銅で作ることも考えられていたのかも知れません。
ただ、時代背景的に費用を集めるのにも苦労しそうな状況だったと考えられます。
ただ、史実に基づくと…
岐阜は、昔から提灯(岐阜提灯)や和傘、和紙(美濃和紙)の生産がトップクラスの町。
そのため、地元の職人たちにとって「竹で骨組みを編み、和紙を貼って、漆や油でコーティングする」という作業は、普段からやっている得意な技術だった。
つまり、地元の提灯職人や傘職人たちの技術を応用することで、巨大な仏像を安価に、そして頑丈に作ることができました。
そこにあるもので、カタチを作るって凄くクリエイティブです。
この技術が集結した結果、この数百年の時を超えても壊れることなく、震災や先の大戦でも維持され続け、私たちが観測できる状態で鎮座することができているのですね。

最後に
今回は実際に事前に歴史を調べ、被写体と向き合ってきました。
特に漆の隙間に見えた、祈りの痕跡。
また、制作の理由等を知れたことで、より私にとって岐阜大仏という存在は特別なものになりました。
調べて撮影して文書にするまで、2週間かかりました。
時間をかければ良いと言うわけでもありませんが、少しづつ時を重ねていこうと思います。
長い文章を読んでいただきありがとうございました。
そんな、大谷の『撮影道中だって、被写体に夢中』の第1回目でした。
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